先週末の土曜日、舞踏家の点滅さんのソロ公演に行ってきました。
以前、点滅さんをモデルにお迎えして人物クロッキーをさせていただいたことがあり、それがご縁で舞踏の世界を垣間見るようになった私。ご縁とはいろいろ繋がっていて不思議なもの。
という話はこのブログでも何回か書いたかもしれません。
点滅さんのソロ公演のタイトルは「不思議国家Q」。
ずっとFacebookで告知を拝見していて、頭に巨大なカタツムリを被った姿が目に焼き付いていました。とても精巧に作られた巨大なカタツムリ、美術家の野村直子さんの作品だそうです。
さて、公演から2日経ったのですが、今この文章を書きながらも、一体何から書き始めたらいいものかと迷っています。あれこれ書きたいけれど、例えば小学校のころによく先生に注意された「読書感想文は、本を読んで感じたことを書くものであって、本のあらすじを書くものではありませんよ」ということになりそうなので、いくつかポイントを絞って書かなければ。
公演の場所は阿佐ケ谷のザムザでした。
土曜日の夜は雨が降っていて、夜陰に静かに溶け込むようなたたずまいのザムザ。

建物の入り口に掲示されていた、今回のポスターです。
点滅さんは、深い赤がとても似合うなと思います。

今回の演目「不思議国家Q」は、物語も振付も演出も点滅さんのオリジナル。
それぞれのアルファベットを頭文字にして言葉を考える言葉遊び、例えば「A」ならAlice、「B」ならBirthときて・・・・「P」はPeace、「Q」はQuestion、「R」はRevolution、「S」はSebastian(=殉教徒)、「T」はTearsというように物語は続いてゆき、最後に「Z」はZero。つまり「全ては何の意味も無い、真実はどこにもない」ということが、物語の重要な要素のひとつだったようです。
アルファベットを使った言葉遊びからこの物語が編まれたのならば、不思議国家Aでも良かったのかもしれないのに、敢えて不思議国家「Q」だったのは、この物語の始まりがQuestion、疑問や問いかけから始まっているということなのかしら。そして、物語はまさに言葉遊びの通り、R、S、Tと続いて行く。
点滅さんが頭に被っていた巨大なカタツムリは、単に装飾品(帽子)というわけではなかった。
舞台の床板を外して、まさに地底からゆっくりと枯葉の上を引きずるようにして登場した「カタツムリ」は、この物語の主人公の化身だった。
ゆっくりと痙攣しながら舞台中央までやってきたカタツムリは、やがてその姿を現し、狭苦しい螺旋の殻の中の国家に君臨している。
実は今回も、公演のアンケートを提出しませんでした。その場ではいつもうまく言葉がまとまらない。
アンケートの中に「あなたにとって国家とは?」という質問項目があったので、ここで答えてみようかなと思います。
「国家」というとすぐに「政治」を連想してしまうけれど、選挙の投票には行く私も、実は政治はよくわからない。だから、国家は、私にとって普段は存在を認識していないもの、という気がします。
それでも、何か大きな事が起きた時には存在を感じるものだと思います。
そして、平静が戻った時に、また存在を認識しなくなってしまう。
もしかしたら、私自身の、アイデンティティに対する認識パターンと似ているのかも。
さて、物語が進み、国家に君臨する大統領である「自分」は、旅に出る。
そこでもう一人の「自分」と対面して入れ替わり、大統領としての「自分」の抜け殻を玉座に残したまま彷徨い、ひとり混乱と戦争の中に身を投じ、崩壊していきます。
クライマックスの混乱と戦争のシーンの中で特に良かったのは、煙幕に紛れて舞台の奥に入り、再び現れたときに黒頭巾を被っていたところ。その姿を見た瞬間、「今、主人公のアイデンティティが崩壊したんだな」と思った。
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話はそれますが、私が昔、初めてメイプルソープの展覧会でヌード作品を見たときに、ヌードの群像で首から上がトリミングされている作品の前で釘付けになった。
まだ私は当時とても若くて、ヌードデッサンなんかも経験が全くなかった頃。
あの時「顔」というものが、人間のアイデンティティを物語るパーツであること、ヌードというものが、いわゆる女性性や男性性の象徴というのではなく、純粋なオブジェ足りうるものでもあるのだということを、生まれて初めて感じたのでした。
その時から、「顔を隠す」という行為や演出、表現に対して、私は敏感に反応するようになりました。
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さて、アイデンティティの崩壊を起こした(と感じた)「自分」は、「無」になり、床に倒れたまま動かなくなりますが、やがて一筋の光が差してきて目を覚まします。置き去りにした玉座の「自分」と、彷徨った後に無となった「自分」は再び出逢い、なんともいえない安らぎの空気が会場いっぱいに満たされた気がしました。
ゼロは「何も無い」ことを意味する。
たくさんあったものが少しずつなくなって、やがて空っぽになったときがゼロ。
しかし、同時に、ゼロからまた何かが始まる。
ゼロ、という数字こそは、終わりであり始まりであり、もしかしたら本当の永遠を示す数字なのかもしれないな、と考えながら、ザムザを後にしたのでした。
ザムザの舞台は地下にあります。
演目が終わって、この地下の空間から這い上がってきた私も、もしかしたら、その1時間少し前に目撃した痙攣するカタツムリなのかもしれないです。