2015年01月09日

【ていねいに毎日を送る】

ていねいに毎日を送る。
ここのところしばらく、そうありたいと真剣に考えています。

人によって、ていねいな暮らし方のイメージは違う。

ともすると、いいやこれは後でまとめてやろう、とモノグサな考え方をしがちな私は、まずは「ふと気付いたことを見なかったことにせず、その場でやる」ことを徹底しようかなと思います。

小さな積み重ね。
今できることは今やる。
なんだそんなこと?

と思えることほど、実はやりこなすのは難しい。
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2014年11月10日

【松下幸之助氏「道をひらく」 - 紙一重】

松下幸之助氏の随筆集「道をひらく」。
480万部超えのベストセラーだそうですね。

「人として大切なこと」とか「自己啓発」とかいう本は、著者から見下ろされている感じがしてしまいあまり好きではないのですが、この本だけは何だかいつまでも繰り返し読んでしまう。
それは、この本が純粋に松下氏自身の生きる上での決心と、一緒に幸せになりたい人々への問いかけでできていて、教えてやろう、導いてやろう、という一方通行な感じではないからかな、と最近では考えています。

朝、本の適当なページを1ヶ所だけ開く。
そこに見開き完結で記されているテーマについて、静かに考えてみる。
その日の運勢をカードで占ってみるような感覚ですが、時々ではありながらそういう読み方をしています。

今朝は「紙一重」でした。
ほんの僅かの違いから大きな隔たりが生まれてくることがある。
たとえば天才と狂人、人間の賢さと愚かさ、成功と失敗など。
ものの見方を少し変えるだけで、同じことが全く違うことに見えたり、発展したりする。
そのために大切なのが、素直でいる、ということ。というような内容です。

多分、この「素直な心を持つ」ということが一番難しいのだと思います。
ただ無邪気な心とか、純粋な心とか、感受性とか、そういうことではなく、物事の真ん中を、先ずニュートラルに捉えられるというか、いわゆる「中庸」の心のことだと思うのです。

「中庸の心」というのは、感情の浮き沈みの激しさやちょっとした被害妄想を起こし易い私にとって、到達したい境地でもあります。事が起きて右往左往するというのは、振り回される周囲もたまったものではありませんが、実は本人が一番つらいものです。

何年も前に心療内科のカウンセリングを受け、身にふりかかる事象をいかに落ち着いて客観視するかという部分を訓練していただいたことがあり、だいぶ改善はしたのですが、それでも「ほんの一瞬」心の立て直し方を間違えてしまうことは、今でもまだあります。

私にとっての紙一重は、その「ほんの一瞬」をどれだけ素早くつかまえて、自分を沈静化させることができるか、ということでもあるのかもしれません。

中庸の境地はその先で待っていてくれる気がします。

いい加減、大人として「いい歳」になりました。
今年は絵画教室の生徒さんも一気に増え、自分に関わってくださる方々への責任も色々と増えました。
まだまだ成長の途中、人生80年ならばようやく中間地点くらいの私です。
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2014年07月23日

【ヴァニラ画廊 たま個展 Secret Mode】

ヴァニラ画廊で開催中の、たまさんの個展。そういえば、彼女の個展に伺うのは久しぶりな気がする。前回は画集に似顔絵を描いていただいたんだったっけ。

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ヴァニラ画廊、気がつけば結構な回数を通っています。

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久しぶりに対面した、たまさんの描く少女たちは、たくさんの傷と押し殺したような沈黙の中で、また一段と強くなって、確かな肉体を持った気がしました。

一人の作家さんの展覧会を追いかけていると、毎回毎回、変化が見える時があります。でも、多分、そのこと(展覧会ごとに気付く変化)はあまり作家さん自身には重要ではないのかも。

創り続けるということは、日々変化していくということ。そして、展覧会は、その変化する過程の何処かを切り取ったものだから。

今日はたまさんも在廊されていなくて、他のお客様もいらっしゃらなくて、空間独り占め。フロアの真ん中に立って壁面をぐるぐる見渡していたら、泣きそうになった。

私には、私の変化が時々わからなくなる。進歩していると思い込んでいるだけで、実は、窓の外の景色だけが流れていて、私の足は同じ地点をただ踏みしめているだけなんじゃないだろうか。私は一体、どこまで来て、どこまで行けるんだろう。

静かに見えるけれど、激しく強い。
たまさんの描く世界は、やっぱり好きです。
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2014年06月21日

【オリジナルと複製、アナログとデジタル、さまざまな価値観?】

SNSの投稿に作品の画像をアップした知人がいて、その画像に写っていた絵があまりに可愛らしかったので、「画像じゃなくて本物が見たい」という趣旨のコメントをしたところで、ふっと思い出したことがあります。

最初に書いておきたいのですが、私は、ここから先に書くことについて、是非を問いたいわけではないのです。ただ、こういう価値観が生まれた背景や、こういう価値観に直面した際にどうしたらよいのだろうか、ということに興味がある、というだけなのです。

さて、話を元に戻しまして、「画像じゃなくて本物が見たい」とコメントしたときに、ふっと思い出したのは、少し前にどなたかが「最近の美術を学ぶ若い人たちは、展覧会のDMや作家のHPを見ただけで満足してしまい、ギャラリーになかなか足を運ばない。良い作家だからと紹介しても張り合いがない。」というような話をされていた場に居合わせたことでした。

これは、インターネットの普及によって「誰もが気軽に情報発信できる」という環境が促進されるようになってから、様々な形で取りあげられている問題ではないかなと思います。

「HPがないとお話になりません」「HPで見るからいいです」「HPで見たのでわかります」というような言葉を何度も聞きました。
その直接的な結果なのかは断言できませんが、展覧会の会期前や会期中に、参加作家の出品作をHPやSNSで積極的に紹介するギャラリーさんに対して、作家さんの反応が、「宣伝になるから大歓迎」という肯定派と「ネットで満足してしまうからやめてほしい」という否定派、ざっくり言えばその2パターンに分かれるようになっているのも現実です。

私自身はと言えば、自分でHPも作っていますし、SNSでも積極的に絵の画像を掲載していますし、ギャラリーさんが宣伝してくださるのも歓迎派です。
ただそれは、都内中心にしか活動できていない自分にとって、ネットはそれ以上の広範囲の人々に、私の存在を知ってもらえるきっかけになるかもしれない、という期待をしているからです。基本的には画家を名乗っているので、実物を見て気に入っていただけることが最大の幸せだと思っています。

だからこそ「HPで見たからいいです」「HPで見たのでわかります」「だからわざわざ展示見なくても」と言われてしまうとやはり凹むのですが、同時に「彼らは、どうしてHPだけで満足するのだろう?」という疑問もわいてきます。
これは、CGという作品形態がアートの分野で地位を確立してきたことが影響を与えているかもしれないなと思いました。

もう一度書いておきますが、私は「アートはアナログvsデジタルどちらが上か?」という議論をしたいわけではないです。

いわゆる「原画」と呼ばれる作品形態は、キャンバスや紙などに画材を使用して描かれ、額装の上、物理的に展示されるものです。そして、それらの複製品である「デジタル画像」がネット上にアップされます。つまり、アナログがオリジナルで、デジタルが複製です。
一方、CG作品はオリジナルがデジタルの形態であり、物理的な展示の必要がある場合において、プリンタ出力の上額装され、展示されます。つまり、デジタルがオリジナルで、アナログが複製です。

さて、両者はまったく別方向のアプローチで存在するにもかかわらず、ネットを生活の中心に据えている人々にしてみれば、それが「デジタルによる複製」であれ、「デジタルによるオリジナル」であれ、ネット上で見る限り、視覚的にはネット上にある「同等なコンテンツ」と認知されているのではないでしょうか。どちらもネット上にあるコンテンツだから、オリジナルがどういう形態や存在のものなのかはあまり重要なことではなく、今、ネットで見て楽しめるか楽しめないか、ということが重要になのかもしれない。だから、「HPで見たからいいです(=もう興味は満たされました)」と感じるのではないのだろうか、と・・・。

もちろん、これは私の想像であり主観にすぎませんが、原画には原画の魅力があるにも関わらず、ネット上の画像で見た、という視覚的な満足でクローズするのには、見る側のそういった意識があるのではないかと思わずにはいられません。

何度も言いますが、私は「アートはアナログvsデジタルどちらが上か?」という議論をしたいわけではないです。
アナログにはアナログの魅力が、デジタルにはデジタルの魅力があるので、アナログはアナログの状態で、デジタルはデジタルの状態で鑑賞するのが最大限その魅力に触れることができる手段なのではないのだろうか、だったらなぜ、アナログ作品そのものの魅力が最も大きい状態で見てみよう、という行動(=展覧会に行こう)につながらないのだろう・・・という疑問を常に抱いている、ということが言いたいのです。

私はもともとWebの仕事をしていた人なので、ネットの情報共有の可能性について、あまり否定的ではないつもりです。ですからこれからも、ネット上で自分の描いた絵を紹介しつづけると思います。
しかし、ネットで見てくれた人々がそこで満足してクローズにならないために、更に自分に何かが必要なのだとしたら、それは何なのかをもう少し真剣に考えることも、これからの自分の課題かもしれない、と考えています。

ちなみに、私が現在、油彩画や鉛筆画を作品形態にしているのは、アナログが上だと考えているからではありません。
それが、自分にとって一番しっくりくる表現手段として落ち着いたからです。
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2014年06月16日

【絵空事に求めるそれぞれのリアリティ】

昨日の「眠る男」の公演を観に行ったスペースは「絵空箱」という名前です。
帰りに建物外観のスナップをスマホのカメラで撮影していて、ふと、そういえば絵空箱、って良いネーミングだな、と思いました。

絵空箱さんのHPをざっと拝見したのですが、特に名前の由来についての記述が見つからなかったので、これは私の思い込みなのかもしれませんが。

絵空箱。絵空事を行うための箱。良いネーミングではないですか。

絵空事というのは、一般的にはあまり良い意味ではないと思います。非現実的で、ただの幻想で、あり得ない事を大げさに考えている。「絵空事にすぎない」という言い回しからもそう感じます。

私が今デッサンを習っている先生は、しばしばこんなことを言います。

絵なんて、絵空事にすぎない。
絵なんて、所詮「絵に描いた餅」。
絵なんて、嘘っぱちなんです。

画家が「絵は嘘っぱち」なんて言っていいのか?と短絡的に解釈すると、この真の意味を見失います。

現実世界は「縦×横×奥行き」の3Dのサイズを持った物体で構成されています。
しかし、絵は物理的には「縦×横」の2Dのサイズしか表現できない。
3Dのものを2Dに変換する。そこには必ず作為(=あることに見せかけるため人の手を加え手直しすること、作り出すこと)が発生します。

つまり絵に描かれたモチーフは、現実世界に存在しているものとは、そのものとイコールとはいかない。そのものイコールに「見える」ように描かれるため、嘘を含んでいるということなのです。

しかし人は、その嘘の中に何かを感じ、感動したり、嫌悪したりするの。
それは、そこにあるのがその人にとっての「実感」、言い換えればもうひとつの現実だからです。

3Dを2Dにする作為というのは、何もテクニック(作画の技術)に限ったことではありません。
テクニックも意図をもって使うからこそ本領を発揮する。
作為の源は、作り手が「意図」をもつことにあります。

例えば、いわゆるリアリズム絵画を目の前にして「本物そっくりにしたいのなら写真でいいじゃないか」と言う人が居ます。気持ちは分かります。
また、そういう言い方は画家にも写真家にも失礼だ、と言う人が居ます。気持ちは分かります。

しかしこういう感想は、画家にとっても、写真家にとっても、失礼なことではなく、最終的に何の意味も持たないだけのことだと私は考えています。

芸術は、実物を模倣することではなく、何らかの実感に形を与えることでもうひとつの現実を創り出すところに意味があります。少なくとも、それは意味のひとつです。
だから絵空事でよいのです。絵空事だから意味があるのです。

絵空事を行うための箱。やっぱり良いネーミングです。
芸術に触れるということが、より多くの実感を体験し、人それぞれが、自身の求めている現実(リアリティ)を獲得するきっかけとなりますように。
posted by はやしすみこ at 09:54| 東京 ☀| Comment(0) | もの想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月16日

「好みではない作風やコンセプトの絵」

時々、言われることがあります。
「あなたの絵は少し毒があって怖いので、もっと明るく、可愛らしい絵は描かないのか。」

そういえば昔も言われたことがあります。
「せっかくなら、もっと温かい絵を描いたのが見たい。」

これは普段感じるのですが、
素直に可愛い絵、素直に明るい絵、素直にポジティブな絵、好きな人多いです。
敢えて「素直に」という形容詞を付けて、拗ねたみたいになっていますがごめんなさい。
単純に、ストレートで分かりやすい、受け入れやすい部分がある、
ということが言いたいのです。

私は目下、画家志向で活動していますから、画家の観点で言うのですが、
画家それぞれには、個性といいますか、作風やコンセプトがあり、
自分の表現したい世界を、その世界観に見合うモチーフや色彩や造形で、作品にしています。
そして、絵を購入してくださるお客様や、ご注文を下さるお客様は、
自分の作風を理解した上で、そうしてくださるのだと素直に考えている部分があります。
少なくとも、私はそうです。

一方、絵を観にいらっしゃるお客様にも、それぞれの嗜好がありますので、
やはり、ご自分の好きな傾向の絵を観たい、欲しい、と思われるのは自然なことです。
ですから、単純な「見た目」の判断だったとしても、
この画家の絵は好き、あの画家の絵は嫌い、
と感じることも、自然なことなのではないかと思います。

表現というのは、最終的に「伝わってなんぼ」という部分がありますので、
表現した世界観がどれだけ伝わりやすいかという課題があるかもしれません。

ただ、人間同士の、普段の言葉コミュニケーションにおいても、
結局、言葉を尽くしても気持ちが伝わらなくて残念な思いをする、
ということは往々にしてあるように、
画家の表現がずっしりと伝わる相手と、どうにも伝わらない相手が存在しても、
不思議なことではないと思います。

今までの経験(自分の絵に対する評価を受けた場など)を振り返ってみると、

古くからの知り合いや、
たまたま私の絵が好みではないのに会場に紛れ込んでしまったお客様から
「もっと明るく、可愛らしい絵は描かないのか」と言われることが多い。

古くからの知り合いの場合は、私の昔を知っているので、
大きな変化があったりすると心配することもあるでしょう。
例えば、10代になって突然「紫色」が大好きになり、
文房具から服装まで紫づくしに変えていく私を、親がよく心配していました。

私の今の作風が定着し始めたのは、ここ数年なのですが、
それ以降に私の絵を観て下さるようになったお客様は、
特にそういったことはおっしゃらない。
「画家とお客様」という出会いの当初から、
そういう作風の絵描きで、そういう作風が好きな人で、
というマッチングができているからですよね。

ただ、たまたま好みではない画家の展覧会に紛れ込んでしまったお客様が、
単純に、ご縁がなかったのね、という形になってしまうのは残念だなと思うこともあります。
できれば、見た目の好みに引きずられずに、
これも何かのご縁と思って、画家さんと色々お話してみてほしい。

お話した内容が、理解(受容)できるかどうかは別の問題ですが、
どんな表現も、それを受け入れ、欲している人たちがどこかにいる、
ということは事実なのです。

もしかしたら新しい世界が広がるかもしれないので、
可能性のひとつとして、好みでないものも楽しんでみようかな、
と思っていただけたら嬉しいなと思うのです。
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2014年05月08日

【シンクロする孤独】

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SNSのタイムラインを眺めていると、
ふっと昔を思い出すような投稿が流れてくることがあります。
昔を振り返ったところで、それがどうなるものでもないし、
かといって、昔の諸々の積み重ねが今の自分を作り上げている。

孤独というものの正体を、
ずっと見極めることができずにいます。
いつからか、何をきっかけにか、
自分の心が強い孤独感に支配されていることに気付いて、
そのことを解決し得ずに、現在に至ります。

ひとりでいる時間は別に嫌いじゃないし、
ひとりで全く行動できないわけでもない。
むしろ迷惑かけたくなくてひとりで行動することもある。

そして、決して今が不幸というわけではなく、
日常の中で幸せを感じる瞬間はたくさんあることを知っています。

それでも時折、自分がまるっきりひとりぼっちの気がして、
何故か胸騒ぎがしたり、居ても立ってもいられなくなる。

それでは誰かに会いにいくかというと、
誰に会えばいいのか、
誰に会いたいのか、
誰が会ってくれるのか、
咄嗟に思い浮かべることもできず。

この想いを誰かに伝えたいとも思い、
伝えたところで伝わらないとも思い、
それでも伝われと思い、
結局は伝わらないことに気付き、
自分で自分が重くなってしまうのです。

一緒に居て、ほっとする家族がいるから、
毎日を暮らしてゆけるのかもしれません。

SNSのタイムラインを眺めていると、
寂しいという気持ちを抱えている人は
何だかとても多い気がします。

孤独の正体が明らかになれば、
呪縛から解放されるのでしょうか。

ただ慰め合うだけでは、孤独は解決しない。

今日、孤独に負けそうになった誰かが、
せめて明日の朝、きらきらと陽の光を身に纏うことができるようにと、祈ります。

一日の最後に、
少しだけセンチメンタルになってしまった。
特に何かあったわけじゃないんです。
ただ少しだけ、シンクロしてしまっただけ。
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2014年05月04日

【待つことと、待たないこと】

5月の連休になると、よく思い出すことがあります。

子どものころ、近所の大手スーパーの衣料品売り場で迷子になりました。
当時、ハンガーラックの大量の衣類の間をモゾモゾとくぐっていく遊びに夢中になっていた私は、
その日も婦人服売り場で買い物をする母が待ちきれず、
ハンガーラックの衣類の間をくぐって遊んでいました。

ふと我に帰ると、母からはぐれている。「しまった」と思いました。
一気に心細くなって、とりあえず付近を探してみましたが、母はいません。

よくあるパターンでは、そこで大泣きして歩き回り、
お店のスタッフさんに保護され、店内放送・・・ということになるのでしょうが、
少し探して「これは探していても会えない気がする」と思った瞬間、
急に冷静になって、そのまま帰宅してしまいました。

そのとき、私の手には、何かでもらった鯉のぼりのおもちゃが握られていて、
帰宅するまでの心細さをごまかすために、
一生懸命、鯉のぼりを風に泳がせながら帰ったので、
多分、5月の連休の頃だったのだな、という記憶になっているのです。

いきなり帰宅してしまったのは、
家にいれば必ず母も帰ってくるから確実だと思ったからでしたが
(しかしどうやって家の中に入ったのかは覚えていません)、
当時は携帯電話など一切ありませんでしたから、はぐれたときも即座に連絡が取れません。
たまたま、近所に住む親戚が、私が一人でいるのを発見して母に知らせに行き、
大慌てで帰ってきた母には、かなり叱られました。

いつどういうきっかけでそうなったのか、
私はあてもなく待つ、ということがいまだに苦手です。
何を待っているのかだんだんわからなくなり、不安ばかり募るので、
子どもの頃から、無意識に「待たない」という選択をしてきたのだと思います。

それは例えば、大人になっても、
待ち合わせに大幅に相手が遅刻しているような場合、
近所のカフェなどを指定して、
「ここで待っているので到着したら私を探してね」とメッセージを残すことが多いです。

ただ呆然と待っているよりは、どこかに腰を落ち着けて、
仕事のアイデアを練ったり本を読んだりして過ごして自分の時間を使っている方が、
気が紛れるし、待っていることを忘れられるのでイライラもしない。

ただ、「待つよりも、待たない方を選択」しても、
必ず自分を探してもらえる手がかりは残すので、
結局「かまってちゃん」なのかも。
つまり自分本位なのかなと思うこともありますが・・・まあそれはそれとして・・・

今年も5月の連休の時期になって、あの迷子の日のことを思い出します。
陽が少しだけ傾いてきた時間帯のことでした。
ちなみに、迷子になったという記憶は、その1回きりです。

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待ち人は、来るのか来ないのか。
皆さんの待ち人は、どなたでしょうか。
いつまで、待ちますか。
いつまで、待てますか。

添付画像は、2013年秋に描いたF3号の油彩画「待ち人は有りや無しや」
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2014年04月27日

【自分という存在の営み - 幸せについて】

時々、ああこの人は私が果たせなかった幸せを手にしていていいな、
と思う事があるけれど、
その人が果たせなかった幸せを私は手にしているかもしれないし、
誰にでも果たせなかった幸せと、
頑張って引き寄せた幸せがあるんだと思う。

つい数日前、かなり落ち込むことがあって、
そのことに付随した幸せを手に入れている他の人のことが、
とてもうらやましくなってしまった。

他人をうらやむことで、
相対的に自分は惨めだなと思ってしまう。
それは、ふっと湧き上がる感情なので仕方のない事だけれど、
その結果、自分が苦しくなってしまうのがつらい。
だから、自分の感情をすこし下がって眺めて、静かに考えてみた。

少し話がずれますが、
私はどうやら他人からうらやましがられることが多いようです。

例えば「あなたのような強くて何でも持っている人に、弱い人の気持ちはわからない」と言われた日もあった。
そのときは多分、その人との会話の中で、私が本当に伝えたかった気持ちが上手く伝わらなかったのでそういう結果になったのかな、と今では思えるのですが、当時ひっそりと心療内科に通っていた時期だったので、そう言われたことがけっこうきつく、何も言い返せなかった。

多分、あの時のあの人の感情は、
ここ数日間、他の人をうらやましがってしまった私の感情に似ていたのかもしれません。

私自身は、あれからこんなに元気になって、なんとか暮らしていくことができる。
私は別に強くもないし、何でも持っているわけではないけれど。
別の方向から見ると、ただ弱いわけでもないし、何も持っていないわけでもない。

ある意味、強くて弱いし、ある意味、それなりに手にすることができている。

だから、「こうあるべき」「こうなることが幸せ」というように、
あまり幸せの形を決めすぎないようにして生きていこうと思った。

いつだって、自分の心を呪縛するのは自分自身だし、
自分を解放できるのも自分自身なんだと思います。

昨日、私のお気に入りスポットのひとつでもある
府中市美術館に企画展を観に行きました。
府中市美術館は、「府中の森公園」という
樹々の豊かな大きな公園の敷地の一角にあります。

ここを訪れると、公園の樹々の中を少し散策します。
木漏れ日がきらきらして美しく、
季節柄、空気もとても爽やかでした。

自然の営みが、ただ存在する事で営まれているように。
私も、ただ存在する事で
私自身を営むことができたらいいなと感じたのでした。

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2014年02月23日

【心には、強さとか、弱さとか、本当は無いのかもしれない】

人間て、心について、弱いとか強いとか、考えるのが好きなのかな。
自分はこんなに弱いのに、あの人は強くていいなとか。
私はあなたみたいに強くないとか。
あなたは強いから、弱い私の気持ちは分からないとか。
こんな自分は弱くて嫌いだとか。
もっと自分は心が強くなりたいとか。

それで、結局最後には悩んでしまったり、
お互いに傷つけ合ってしまったり、
「強い」と「弱い」の、たかだか2つの形容詞のために。

今朝、SNSのTLを眺めていてちょっと気になる「癒しの言葉」があって、それはいわゆる、多くの人が何だか共感してしまうような紛れも無い癒しの言葉なんだろうけど、何かがすごくひっかかってしまった。

人間が「強くなれる」っていったいどういう状態になれることなんだろう。
例えば「頑張れること」が「強くなれること」だとして、
誰だって頑張っているのではないのかな。
それなら、誰もが強いのだろうか。
自分を弱いと思っている人も、実は強いのだろうか。

それで、心の「強さ」とか「弱さ」というのは、ひどく漠然とした概念だなと感じた。

心に強いとか弱いとか、実は無いのかもしれない。
立ち直れる人は、立ち直る自分なりの方法を見つけただけなのかもしれない。
立ち直り方は、その人の置かれた立場とか培われた価値観とか、さまざまな要因によって異なると思うけれど。

だから本当は誰だって、自分の「弱さ」に泣いたり、「強さ」を切望したりして苦しまなくても良いんだと思う。

自分は「弱い」と思い込んで、自分で自分を傷つけないように。
他人が「強い」と思い込んで、大切な誰かを傷つけないように。

いつでも、次の一歩を自分で踏み出せるようになれたらいいと思う。
それは、弱さとか強さとかでなく。
生きているからこその本能のようなものかもしれない。
posted by はやしすみこ at 16:45| 東京 ☀| Comment(0) | もの想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月11日

【感情をすくいあげるということ】

救う、と書いても「すくう」だし
済う、と書いても「すくう」だし
掬う、と書いても「すくう」だし、
それぞれに意味は違うけれど、どの文字を当てはめても、いいのかも。

人間は結構、色々な感情に悩まされている。

感情そのものは、多分、反射神経のようなもので、
熱かったら反射的に手を引っ込めるとか、
小指を角っこにぶつけたら涙が出るとか、
そういうものに似ていると思う。

つまり、感情は放っておいても湧き上がってくるものだから、感情そのものを禁止することはできない。感じるものは感じてしまう。

それでも、嬉しいとか楽しいとかならともかく、悲しいとか悔しいとかつらいとか、そういう痛みを伴う感情は時として持て余してしまうし、どうしたら解消できるのか、解消できない、と悶々とする。

そういうとき自分自身で「大丈夫だよ」ってその感情をそっとすくってあげることができたら、どんなに楽になるだろう。

でも、自分自身で自分の感情をすくってあげることのできない人もいる。
おそらく、そうできない人の方が多いと思う。おそらく、だけど。

私の絵は、自分のホームページにも書いていますが、「光と闇とその間にある静かな時間」を意識しています。

人間は、光がなければ生きてはゆけません。 しかし、光があれば必ず闇があるように、闇を無視して生きることもできませんし、闇の中に居る時も、どこかに光があることを知っています。

私の絵をよりどころにして、少しでも多くの人が、痛みを伴う感情を自分の力ですくうことができたらいいなと思うのです。

痛みを伴う感情、負の感情は、すべての人の中にある。
それを否定する必要はない。
ただ、気づいたら、そっと、すくってあげるだけでいい。

それでいいんだよ、って思えるような絵を1枚でも多く送り出していけるように、私自身も私自身の力で、もっと自分の感情をすくえるようになりたいと思います。
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2014年02月02日

【諦めない、という愛情】

最近なんだか色々真面目な物思いをSNSに投稿することが増えているのですが、SNSでは思いつきで文章を書いているとはいえ、せっかくの自分の思考回路のアーカイブなので、内容を少し補足したものをブログにも反映しておくことにしました。新たに「もの想い」カテゴリを作りましてそちらに入れていきます。

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世の中には諦める人と諦めない人がいる。
それは、諦めがいいとかわるいとか、飽きっぽいとかしつこいとか、色々な言葉で人様から評価されます。

私も日々「諦める」という行為を何度もしてきました。
その理由というのはなんとも根拠のないもので、「自分なんてどうせできない」とか「自分にはその力が無い」とか、あるいは単純に「面倒くさい」「怖じ気づいている」「恥ずかしい」「失敗したくない」というようなところにあったと思います。

ここのところ、自分の絵の活動を通して、「何事も、諦めないという心が前進を生むんだなあ」と感じることが多くなりました。

「諦めない」という言葉からイメージされることの多くは、「とにかく頑張れ」とか「とにかく努力しろ」ということではないかと思います。つまり「根性の問題」。
私もある時点まではそう思っていました。

しかし、それは単なる誤解なのではないかと最近思うのです。

会社員を辞めてからの3年間、絵の活動の時間は圧倒的に増えました。
フルタイム勤務の時間がほぼ丸ごと絵の活動に塗り変わるので当然の結果です。

絵に関わる時間が圧倒的に増えるということは、その世界の素晴らしい方々に接する機会も圧倒的に増えるということです。
新しい仲間であったり、先輩方であったり、先生とお呼びするような方々だったり。
おそらく、その方々との交流の中で、徐々に私の考え方は変わってきたのでしょう。

今は、「諦めない」というのは、どれだけその物事に執着できるか、どれだけのめり込めるか、しがみつけるか、ということだと思っています。

それは、言い換えれば強烈な愛情ともいえるものです。
どれだけ愛を持てるのかが鍵。

愛は、自分の意志で育てることができるから。
諦めない心も、自分の意志で育てることができると信じます。
posted by はやしすみこ at 10:14| 東京 ☀| Comment(0) | もの想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月30日

【三善晃先生 お別れの会 サントリーホールにて】

現代日本を代表する作曲家、三善晃先生が、昨年10月に他界されました。
三善先生が門下の方々に生前言い残されたという「お別れの会」が、本日、赤坂のサントリーホールで開催されました。
お別れの会には大勢の方が集まられ、2階席には皇后陛下のお姿もありました。

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会の前半では、三善先生の門下の方々とご遺族による、送る言葉、
会の後半では、ピアノ、ヴァイオリン、混声合唱による三善先生の楽曲の演奏会がとり行われました。

私は学生時代、ずっと合唱に親しんできました。
その中でも、精神面で大きな影響を受けた高校時代の合唱部顧問の先生が、三善先生の合唱曲をたびたび選んでいらっしゃいました。

つまり、私の記憶に間違いがなければ、三善晃先生の合唱曲に出逢ったのは高校生の時です。
一般的に言う「不協和音」の連続の曲を歌うのは大変苦労しましたが、歌い込むにつれて、その中に不思議な調和を見いだし始めると、なんだか夢中になってしまったことを覚えています。

大学卒業まで合唱を続け、今はもう、歌う機会も無くなってしまいましたが、女声合唱のための「三つの抒情」は私が指揮者を経験した思い出の曲です。三善先生には一度もお目にかかることはありませんでしたが、ある意味、私にとって、三善先生という作曲家の存在は、大切な青春の1ページです。

今日、演奏会の間ずっと涙が止まらず、鼻をすする音で、お隣に座られた方はご迷惑だったのではと今更思います。大変申し訳ないことをいたしました。

改めて、合唱に夢中になっていた頃を思い返すと、嬉しいことも悲しいことも様々で、それでもやはり歌うこと、ステージで客席との空気を共有する時間は素晴らしかったです。
願わくば、もう一度指揮者としてステージを持てたら、などと考えてしまいましたが、おそらく発声法すらままならなくなった私の声帯では、その願望は遠い夢でしょう。

このブログを読んで下さっている方々の主な年齢層は分かりませんが、もし読者に10代の方がいらっしゃるならば、その多感な時期にできるだけ多くのことを経験していただきたいと思います。
いわゆる思春期という不安定な時期に蓄積した、文化的、精神的な経験は、その後の人生の強固な土台となります。大人になって、その土台に、新しい経験がどんどんアドオンされていきますが、何かの折に、必ず土台に立ち戻ることがあります。そこから、また新しい経験が始まっていきます。

演奏会終了後、ステージ上に掲げられた三善先生のお写真にご挨拶をしてきました。
私は、この世に何を残せるのでしょうか。

今日は、これまでの私の諸々を、噛み締めた一日でした。

三善晃先生のご冥福を心からお祈りいたします。
posted by はやしすみこ at 20:21| 東京 ☁| Comment(2) | もの想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月03日

【しばらくTwitterをお休みします】

タイトルのとおり、しばらくTwitterからのつぶやきをお休みしてみることにしました。
ただ、このブログは新しい日記を投稿した際に日記のタイトルとURLがTwitterに自動投稿されるように設定していますので、Twitter側にはブログの更新履歴だけがツイートされる感じになります。

特に何かトラブルがあったからやめるというのでもないですし、殊更にブログで宣言するほどのことでもないとも思ったのですが、時々私宛にメッセージやリプライをくださる方もいらっしゃるので、お知らせ程度に。

ホームページ、ブログ、Twitter、Facebook、mixiと、情報発信や交流のための様々なサイトがありますよね。

私自身はどのサイトでも、発信する情報の内容は絵描きとしての私といいますか、基本的に同じにしようと思っています。だから、Twitterに投稿したツイートはそのままFacebookのウォールやmixiのボイスに反映されますし、HPを更新すれば必要に応じて他のサイトにもそれぞれのサイトの機能を活用して更新内容を流します。

ただ最近、単純に「いっぱいやってるなー」という状況にちょっと疲れてしまった感じがしていて、一番気軽に投稿できるが故にアクセスしている時間の多かったTwitterを、ちょっとお休みしてみようと思いました。

今後また復活するのかは分かりませんが、当面はHPとこのブログと、Facebookを中心に情報発信を続けるつもりです。
そのようなわけで、こちらの都合で大変申し訳ないのですが、私へのご連絡等がございましたら、お手数ですがHPのお問い合わせページ経由で送信いただくか、メールにていただけますと助かります。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
posted by はやしすみこ at 13:20| 東京 ☁| Comment(0) | もの想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月28日

【スペインの宗教画の修復?騒動で改めて考えました】

ここのところ、スペインの教会に描かれたイエス・キリストのフレスコ画が、アマチュア画家の80代女性により「修復」された結果、オリジナルとは似ても似つかない結果になってしまったというニュースが話題になっていました。

例えばこちら
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☆スペインで修復「サルのような」キリスト画が人気
http://www.christiantoday.co.jp/article/4978.html

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私自身は、その宗教画のビフォーアフター画像をインターネットでみてびっくりしましたが、どうやら修復専門家が近日中に再修復を開始するらしいとのことなので、ああ良かった、と思い少しの時間忘れてました。

しかし、ふとしたはずみでそのニュースに関する別の記事を見かけ、オリジナルとは似ても似つかない「修復画」が話題になりすぎて、グッズができる、むしろ気に入ってしまった、元に戻さないで欲しいと約2万人の署名が集まるといった「人気爆発」騒ぎになっているらしいと知り、愕然としました。

例えばこちら
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☆「世界最悪」の修復キリスト画が大人気、訪問者が急増
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2897332/9413856

☆【キリスト画】おばあさんが勝手に修復した教会の壁画が人気爆発 → 「元に戻さないで」と2万人が署名
http://rocketnews24.com/2012/08/27/243484/

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ありえない。グッズ展開とかありえない。
元に戻さないでとかありえない。

・・・と、ひとしきり憤慨していたのですが、その時ふと家族が漏らした一言に、私は即答出来ませんした。

「このおばあさんは善意でやったらしいし、そもそも、オリジナルそっくりに修復って、何故やらなくちゃならないのか。この事件はどこが悪いのか。」

私が憤慨していたのは、アマチュアが修復した結果が変だったということよりも、その結果をむしろ楽しんでいる人たちがいるということにだったのですが、

修復が何故必要か。
何故オリジナルを大切にするのか。
日頃、絵を描いている私なのに、修復の原点を考えたこともありませんでした。

その時私が家族に答えたのは、「これは宗教画であって教会にとって重要なものだろうから受け継がれてきたわけで、それを教会が予測し得ない形に変えてしまうというのは、善意悪意関係なく、単に器物損壊なのではないか、第一、絵画に対する冒涜である。」という趣旨のこと。

私には修復の仕事をしている知人もいて、修復に関わることでのエピソードを聞いたりする機会もあります。そういえば最近どんな話を聞いたかな…と思い出しながら、色々考えてみました。

【そもそも、修復の役割は】

絵は、それを描いた人がこの世に存在したという証であり、その作品を所有したり愛したりした、様々な人々の想いを受け継ぎます。
しかし、形あるものはいつか朽ちるわけです。
その、朽ちるまでの時間を少しでも引き延ばし、それを受け継ぐ人々の想いに応えるのが修復という作業なのでしょう。
その修復の結果に対して求めるレベルが高ければ、専門知識を持ったプロの登場です。

【そして、全ての美術品が修復されるべきかというと】

つまり修復は「これは大切なものだから破損したら修復しなくちゃ」という想いで選択された美術品に対してのみ行われるので、どんな美術品も修復されるべきということではないと思います。

【修復に完璧というものはあるのか】

これはプロの修復士の方々の価値観も色々伺ってみないとわかりませんが、実際、破れたキャンバスを裏からガムテープ止めして、絵の破損が解消された=修復されたことになっている例もあるようですので、何を以て完璧な修復というべきか課題は多いです。
ただ、人々の想いを台無しにするような修復結果はNGだと私は思います。

【・・・と考えると、スペインの一件は誰が悪いのか】

…と考えていくと、今回のスペインの一件において、修復作業をした女性には修復への心意気があったわけで、そこから始まったということ自体は誰も彼女を責めることはできないかもしれません。

ただ、修復の作業が作業者の熱意(?)だけで行われ、絵の所有者(誰?)の意向が反映されていないようですし、つまり他者の想いを台無しにしているという点でやりすぎたと思います。

誰も彼女を止めなかったのはなぜ。
気づかないようにひっそりと作業が行われたのかしら。
教会側はなぜ止めなかったのかしら。
色々な不幸の積み重ねとしか思えません。

彼女自身が法律上、器物損壊などで罰せられるとか、管理団体が彼女を訴えるとかそういうことが今後あるのかもしれない。
私スペインの法律は知らないけど・・・。

【私が一番イヤなのは】

今回の一件、私は専門家が早く到着して、この不幸な修復(?)結果をまずクリアにしてほしいと思います。彼女の筆が入る前の状態に戻し、その上で改めて修復の必要性を検討し、皆の想いを台無しにしない修復を実現すれば良いと思います。
あるいは、修復しないという選択肢もあるかもしれません。

今回一番イヤだったのは、話題になったこの件に便乗して、グッズ展開をしたり署名をしたりして盛り上がった人々がいたということ。集めた署名にどういう意味があるのでしょう。これは一時のお祭り騒ぎであって、しばらくしたら騒ぎに飽きて忘れられてしまうに違いないのに。

大切なのは、今回不幸(?)に見舞われたこの宗教画に対する、これまでの様々な人々の想いを改めて考えることではないでしょうか。

人間の強い想いは何かを変えるけど、時にただのお騒がせになってしまうことがあるというのは、何ともやるせない気がします。
posted by はやしすみこ at 16:36| 東京 ☀| Comment(1) | もの想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月09日

【磨くということ】

私の知人友人の中にも美しい人はいて、そういう人を、本当に綺麗だなー、と思いつつこっそり眺めてたりするのが好きです。

時々、私もこんな美しく生まれたかったなと思ったり。

人間の価値は外見だけでは決まらないけれど、誤解を恐れず言うならば、私は結局美しいものが大好きなので、美しく生まれた人には美しい外見を持っているという強力なアドバンテージがあると思うし、どんどん磨いていただいて、釘付けにされたいと思います。

しかし、時代ごとに人の外見の美しさの基準は変化するように、美しいというアドバンテージもあやふやなものだったりする。

例えば、多分顔の美しさだって、ほんの1mmだけ鼻の位置が違うだけで差が出てくる訳なので、実際、美醜の本質は身体上の個性なわけです。

だから、

時代が求める美しさを伴った人は時代の波に乗って。残念ながら時代が求めなかった人も、別の波に乗って。

どんどん磨けばいいと、思う。

そして、それぞれに磨き方というものがあって、磨き方は人それぞれ。
自分よりも硬い材質の物で磨けばあっという間に傷がつくでしょう。

磨くためのもの。自分が1番輝く磨きを実現してくれるもの。

美しさ磨きって、そういう「磨きを実現してくれるもの」を探していく過程が醍醐味なのかもしれません。

私もまだまだ磨こう。
オバチャンになってもまだまだ。

今日はもっと美しくなりますように。
posted by はやしすみこ at 10:03| 東京 ☁| Comment(0) | もの想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月17日

【Jishi_ Auction 震災義援金のためのチャリティオークション】

現在、様々な分野で活動中の方々がそれぞれに、被災地支援のためのチャリティ企画を発表、行動開始されています。

私は現在、Twitterで偶然知った以下のチャリティオークションの情報を追っています。
この週末あたりで、参加作家の仮参加申込を受付開始する予定のようです。

【jishin_auction】
http://jishinauction.jimdo.com/
ものをつくるひとにできること

自分の作品が少しでも役立つならと思います。

また、3/14より日本赤十字が義援金の受付を開始しており、こちらにもわずかながら募金させていただきました。

日本赤十字社
http://www.jrc.or.jp/

皆がそれぞれ、自分の状況の中でできることをする。
募金ができなくても、ボランティアができなくても、電気や水を節約するだけでも。

人それぞれに置かれた状況や条件、判断基準は異なるから。
私だってたいしたことはできません。
それでも、何かをしようと考え、実行することに意味があると信じたいと思います。
posted by はやしすみこ at 08:45| 東京 ☀| Comment(0) | もの想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月15日

【今、自分にできることをします】

今回の東北地震について、インターネットやテレビでは様々な情報が飛び交い、その中には正確な情報、不正確な情報、必要な情報、不要な情報、ごちゃごちゃになっています。
私自身は大きな被害を受けなかった地域でしたが、それでもここ数日の生活は混乱しています。

今、自分にできることというのは人によって様々ですし、日が経つにつれて、新しい「できること」が増えてくるかもしれません。

私は今、何をしたらいいのか。
私の置かれた状況、私自身が持っている条件の中で、できること。
項目で挙げていったらきりがないのですが、

☆自分自身をきちんと支え、集団の最小単位としての自分と家族をしっかり守る。
☆必要な支援を必要な時期に行えるよう留意する。今できる支援は募金。
☆生命維持に関わる食品や医療品は必要な物だけを購入するようにし、被災地への物資提供の優先と、本当に必要な時に物を入手する手段がないという事態を避ける(各地でスーパーやコンビニの食品棚が空っぽになっています)
☆節電にこころがける。使い捨てカイロや衣類の重ね着で少しでも暖かくする。
☆計画停電に際しては、情報をまめに入手して生活サイクルを調整することと、停電時間には事前にコンセントを抜きブレーカーを落とすなど電力復旧時の事故を予防する
☆火災を起こさないために、火の使用は必要最小限にする

他にも色々あるはずですが・・・

あとは、私にとって一番こころを落ち着かせるのは絵を描くことかもしれません。
何かに集中するということが、怯えている時間を少しでも削ってくれます。
アーティストによるチャリティオークションその他の企画もちらほらと立ち上がりつつあります。こちらもできる限り協力できたらと思います。

集団の中の一個人としてできること。
絵描きとして作品を媒介してできること。

この2つの観点で、私は自分の行動を考えて行きたいと思います。
人道的な観点と、私自身のアイデンティティの観点です。

もちろん、私の状況下でできることです。
状況が違えばできることも考え方も異なります。
他の方々は、その方々なりのできることがあるはずと思います。
考えて、判断して、行動したいです。

これから、今日しなければならないことをします。
posted by はやしすみこ at 11:53| 東京 ☁| Comment(0) | もの想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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