知人が出演するということで、お誘いいただたいのでした。
「和楽器コンサート 和(なごみ)」紀尾井ホールにて

東京芸大の卒業生によって結成された邦楽の演奏家集団で、今年で結成10周年、今回8回目のコンサートとのこと。
邦楽(和楽器)というと、伝統芸能というイメージだけでなんとなく遠い存在に思えているのですが、昨日のコンサートは司会者の方がいらっしゃって、幕間に出演者がステージ内容や楽器について紹介してくださったり、邦楽になじみのない人でも親近感を持てる内容でした。
もっとも、ひとくちに邦楽といっても、日本にも長い歴史があるので、様々なジャンルがあると思いますが、このコンサートは長唄や囃子などです。
全部で5ステージあった中で特に興味深かったのはお囃子のステージでした。出演者の方が、お囃子の掛け声の意味を説明してくださったことで、聴くポイントが絞られたからかもしれません。
私は学生時代に合唱にあけくれた人なので、いまだに合唱の演奏を聴くと、この曲をこの指揮者でこの合唱団だとこんな曲作りになるのか、と思いながらわくわくして聴くのですが、それは自分なりに「聴くポイント」を持っているからわくわくするのだと思うのです。
お囃子の掛け声は、ただ声を出しているのではないということを知りませんでした。
指揮者がいないので、掛け声で次の人に様々な合図を渡しているのだそうです。
あの掛け声で、どういう調子で演奏を続けていきたいのか、それに次の人がどう応えるのか、というようなやりとりが行われているんですね。演奏の間のちょっとした静寂もただの休憩ではなく、そこには意味のある「間」がある。
そうやって聴いていくと、鼓のパートが複数人数で複雑なリズムを見事に刻んでいくときの呼吸感というか、微妙な間のあとに全員が一糸乱れず演奏を続けていく不思議感というか、だんだん引き込まれていくのでした。
実は、お囃子の演奏を聴きながら、よく日本人の間で言われる「空気を読む」「行間を読む」という傾向のことを考えていました。日本人の精神的な傾向と音楽の傾向はどちらが先なのかはわかりませんが、場に醸し出される雰囲気や間合いで相手の様子を受け止め、それに応えながら物事を進行していくという点で、まさにこれは日本の心の音楽なのかもしれないと。
最近の「空気を読む」は、言われなくても雰囲気を察して厄介に場を乱すな、という、どちらかというと消極的な意味合いのような気がしますが…もともとの「空気を読む」は、相手の意思を受け止め、それに前向きに呼応していくことで、場を皆で作っていく、それによって素晴らしいものが作られていく、という積極的なものだったのではないかな、と自分の中では腑に落ちたのでした。
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ところで、最寄駅が同じなので、演奏会の前に久しぶりに聖イグナチオ教会の礼拝堂に寄りました。
多分、昨年の梅雨のころに訪れて以来です。
私は宗教を持つことなく生きていますが、「何かに祈る時間」というのは好きです。礼拝堂には「どなたでもお入りください」という案内が掲げられているので、お言葉に甘えています。
祈りの場所として、信者でもない私の訪問を受け入れてくださることを、いつもありがたく思っています。
通りに面した、ステンドグラスのライトアップです。
